2015年12月21日 更新
市長コラム第89回 サンフレッチェ広島と安芸高田市
サンフレッチェ広島がJリーグを制覇しました。2012(平成24)年、2013(平成25)に続き今回2015(平成27)年の優勝で三度目の優勝です。堂々の王座奪還であります。私にとっても市長就任8年間で3回の優勝は感無量で、喜びで一杯です。
市長就任当時の2008(平成20)年は、サンフレッチェはJ2に降格しており、J1復帰の応援をした事が夢の様です。サンフレッチェ広島は資金力が乏しい地方のクラブで、またオフになると有力選手が引き抜かれ、ファンとして大変寂しい思いをしています。
サンフレッチェ広島を率いる森保監督は、ペトロヴィッチ前監督から引き継ぎ2012(平成24)年のJ1復帰4年目に就任されました。森保監督はその逆境に耐え、若手選手を見事に鍛え上げ、選手一人一人と心が通えるコミュニケーションを大切にし、心が通えば選手が伸びるという信念のもとチームづくりに専念されました。また、練習をした者の成果も大切にされ、試合には練習で結果を出した選手しか起用しない厳格な競争原理を貫かれました。練習を積み重ね、努力をすれば報われる。選手たち誰もが定位置を奪えるチャンスがあると、出番を欲した若手選手の意識が高まり、全体のレベルがアップしました。当たり前の事を忠実にやり遂げた事が、3回目の優勝を成し遂げた要因と思われます。我々財政難の行政を預かる者として、森保監督の手法は参考にすべきものと評価をしております。
1992(平成4)年、Jリーグが発足しサンフレッチェ広島が誕生しました。サンフレッチェの名前は、広島県民の応募により戦国武将毛利元就の「三本の矢」の故事に因んで命名されました。「サン」は日本語の「三」を意味し、「フレッチェ」はイタリア語で「矢」を意味します。毛利元就の生誕地、安芸高田市(吉田町)にとってサンフレッチェ広島の誕生は大変意味深いものとなりました。
このことを踏まえ、サンフレッチェ広島をまちづくりに関連づける事は出来ないか、当時商工会会長 沖田 勝信氏や吉田未来サロン代表 松林 行圓氏などが中心になり、「まずサンフレッチェ広島に吉田町に来て頂く事が大切」と考えて、サンフレッチェ広島の必勝祈願の地元開催を強く要望した結果、清神社(すがじんじゃ)での開催が決定しました。また、サンフレッチェ広島の拠点を吉田町に置いたことで、サンフレッチェユースに所属する若者たち(30人〜35人)が、全国から集まり吉田高校で勉学と練習を両立し毎日頑張っています。生徒達の宿舎は1994(平成6)年にユース専用の寮が完成するまで、地元住民の皆様のご協力により民泊(ホームステイ)による対応でした。
1992(平成4)年、国は全国的に「若者定住施策」を推進しており、吉田町として「サッカー公園」の建設を提案し採択をされました。1992(平成4)年、広島県が立会いのもとサンフレッチェ広島と吉田町とでサッカー場の整備協定を締結しました。1993(平成5)年に3コートのサッカー場の建設に着手し、1998(平成10)年に竣工しました。同年、広島県の立会いのもとサンフレッチェ広島と吉田町とでサッカー場使用協定を締結しました。
私は必勝祈願・サンフレユース・サッカー公園の3つの関わり、更にはサッカーフェスティバル・スポンサードゲームが、安芸高田市とサンフレッチェ広島との関係を強くしていると考えています。サンフレッチェ広島と安芸高田市は毛利元就がご縁で素晴らしい関係が出来ています。この関係を大切にし、今後のまちづくりに活かしていきたいと思います。
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