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 甲立盆地西南端の丘陵先端部の山城で、細長く急峻な尾根上に大規模な遺構が残っています。

全体は大きく3つにわかれており、増築が繰り返されたと思われます。巨大な堀切や竪堀が数多く残り軍事性の高さが顕著な一方、中心部には石垣が多用されており、戦国後期の改修により居住性を高めたと思われます。

 

これまで「宍戸朝家が建武元年(1334)に安芸の守に叙せられ甲立に下向し、当初菊山麓に柳ケ城を築き入った後に城を対岸の元木山に移したのが五龍城」、と伝わっていましたが、当時の史料からは明応7年(1498)に、大内方の宍戸氏の五龍城に細川氏方の備中三村氏が攻め寄せ落城したことが判明しています。つまり、15世紀末までは大内方宍戸氏の城で、16世紀には細川方の宍戸氏の城となったと思われます。

この細川方宍戸氏が後に大内方に転じ、元就の時代に毛利氏と同盟関係となったようです。以後五龍城は隆家ら宍戸氏の本拠城として、また毛利氏の郡山城の北の備えとしての役割を果たし、隆家の孫の元続の時代である戦国末期まで機能したと思われます。

 

<伝説>

城中の水が不足したために五龍王を勧請して祈願したところ 井戸の水が馬を洗えるほど湧き出し、それによって山の名を五龍山と改め城も五龍城と名づけた、との伝説があります。

 

指定年月日:昭和46年4月30日

所 在 地:甲田町上甲立

五龍城石垣
五龍城堀切

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